羽生結弦 フィギュアスケートあれこれ 伊藤みどり

フィギュアスケートの芸術を語るのは難しい

投稿日:2018年10月14日 更新日:

スケート基礎英語のアスレティシズム芸術性に関連して。

芸術点、表現力って

昔の旧採点でtechnical merit(技術点)と、artistic impression(芸術点)というのがあった。

技術点の方は、まあ分かる。

でも、artistic impression(芸術点)っていったい何だろう。

昔のことは分からない。ジャッジがどういう視点でジャッジつけていたとかそういうことは全く。私は残されている映像から点数を見ることぐらいしかできない。

芸術点、というのもあれば、近いものに「表現力」というのもある。

文字通り「表現する力、能力」であるが、カタリナ・ビットのカルメンのようなスケートなら、見ている人にとってすごく表現力がある、と分かりやすいけれど、ストーリー性のない音楽だと素人感覚では「なんか伝わるものがあるがそれがなんなのか言葉で上手く言えない」みたいな感じになる。エモーショナルな感じとか、音楽との一体感とか、そういうところで感動は伝わってくるが、それ以外にも感じたことを言葉で置き換える能力に乏しく、上手く説明できないのだ。

それでも、点数が高い人の表現力といまいちな人の表現力の違い、というのも素人ながらにも感覚でなんとなくわかるし、それが点数に表されていると感じる。

しかし、昔の旧採点だと、イギリスだけ伊藤みどりにやたら低い点をつけたり、どうも捉える方にもバラツキやこだわりがあるように思える。

これまた素人ながらの意見だけれど、伊藤みどりのスケートはこれまでと違うニュータイプのジャンルだっただろうから、ジャッジの戸惑いとかがあったに違いないと思うのだ。

バレエのような優雅でエレガントのようなものが正統なフィギュアスケートで、スポーティなアクロバティックなものはフィギュアスケートとは認めたくない、みたいな。

でも彼女は持ち前のスケートで観客を虜にした。特にジャンプで魅了させることに成功したのだと思う。そうじゃなければ、国際試合の演技でスタオベなんてありえないからである。

ニワカ素人の私が言うのもおこがましいが、技術が凄すぎて芸術になってしまったのだと思っている。

人はすごい技術を見てしまうと、「もはや芸術の域だ」と言ってしまうことがある。その感じ。

 

ところで伊藤みどりに関して、「芸術点が低い」などと言われ続けているのがとても気の毒に思う。たしかに表現に乏しい時期もあったように思うが、それは技術点と比較してというだけである。

カルガリー五輪後の彼女は年々追うごとに所作が美しくなって、芸術点で満点を得たこともあるというのに。

本人も諦めきってネタにしてしまうこともあるようだけど、ファンはきっと、ずっと歯がゆい思いをしてきたに違いないと想像する。

芸術と感情

私は芸術とは、誰にでも通じるものだ、という思い込みがあった。

きれいな景色を見れば誰でも感動し、美しい名画を見れば誰でも感動するもんだと。自分が感動する映画を見たら、きっと他の人も同じように感動するだろう、とか。

しかし、すぐ考えてみたら分かる。

芸術は、受け手の感情にもものすごく影響を受けるものと…。

もし自分が、とてもショックな出来事があった直後に、美しい景色を見て美しいと思う気持ちになれるだろうか。

ひどい裏切り方をされた失恋の後に、純愛ラブストーリーなどを見て感動できるだろうか。

それに、好みも当然ある。人気のドラマを見て、自分に合わないものもあったし、視聴率が低いマイナーなドラマに一人ではまったこともある。小説だって漫画だって音楽だって、どんなに人気があっても、好みじゃないものはやはり受けいれないものもある…。

しかし、好みを言う以前に、一定水準の「技術」は絶対に存在すると感じる。羽生結弦のインタビューによる、

芸術は、絶対的な技術に基づいたものであると僕は思っています。

という言葉の通り。

例えば、キーが外れまくった歌手の歌声とかを心地よいと感じる人はいないだろうし、デッサンがおかしい漫画をストレスなく読める人はいないだろう。プロならば最低限の技術を持ち合わせてからの「個性」である。

 

それから、黄金比やシンメトリー、調和など、誰にでも本能で感じることのできる心地よさというのもある。

「最低限の技術」や「本能で感じる心地よさ」、これだけは国も文化も好みも関係なく、確実にある、と思う。

 

しかし、誰にでも受け入れられる芸術というのは本当はあるんじゃないかと思うが、なかなか難しい。

好み・文化・感情・自分の中にあるこれまでの人生、そういったものにどうしても左右される。

 

羽生結弦選手の演技は、まだライト層だった頃に見た私の印象ではあるけれど、オリンピックで見たときの彼の演技とハビエル選手の演技は、分かりやすく直球的で、変な癖がないように思った。もし個性がある部分で突出し、違うところで弱点があったとしたら、当然好みも分かれるだろうけれど、そういうタイプではなく、オールラウンダーなタイプだと解釈した。

とくに羽生結弦はジャンプ、スピン、ステップ、プログラムの世界観、どれも完成度が高くて素晴らしかった。これを素直に素晴らしいと思えない人はいないだろう、と思ったのだ。

もちろん、彼よりももっと筋肉ガッチリなスケーターが好み、という人も当然いるとは思うけれど、あくまで演技として。

 

しかし、中には「感情」が邪魔して見られない人もいると知った。もしその「感情」がなくて、羽生結弦が少し時代がずれていたり、まったく違う国の選手だったり、はたまた女子だったりしたら、その「感情」を邪魔してまともに見れない人は、「感情」の原因になるものが取り除かれることによって普通に見ることができて、うける感情も変わるのではないか、と思ったりもした。

 

辞書で引く「芸術」

コトバンクに書かれた「ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説」によると、

本来的には技術と同義で,ものを制作する技術能力をいったが,今日では他人と分ち合えるような美的な物体,環境,経験をつくりだす人間の創造活動,あるいはその活動による成果をいう。芸術という言葉は,利用する媒体や作品の形態によって伝統的に分類される数多くの表現様式の一つを示すこともある。したがって,絵画,彫刻,映画,音楽,舞踊,文学をはじめとする多くの審美的な表現様式をそれぞれ芸術と呼ぶことも,全体として芸術と呼ぶこともできる。これは一方では自然の被造物と,他方では技術や知識による産物と異なる。

最初の、本来的には技術と同義…というところにぐっと来ました。

技術と芸術は、2種類のものが存在するように見えて、実は表裏一体というか根本は同じというか。

みどりさんに見た「技術が凄すぎて芸術の域」という裏付けになったような気もした。

羽生結弦のきれいすぎるジャンプを見ると、「芸術だ」と感じる人は多くいると思います。その一瞬の「すごい!」と思う感覚を得たくて人は釘付けになるんだと思います。

もちろんジャンプだけではなくてプログラム全体が一つの独特の空気、作品を通して受ける感動、そういうのに魅了される人が多いんだと思っています。

芸術って何だろう

ここ数週間、芸術って何だろう、表現力て何だろう、どうして万人に受け入れられるものは存在しないんだろう、どうしてある一部の人に限っては…、とずっと考えてきました。

しかし、芸術なんて考えたこともなく、そんなに音楽とか絵画とか芸術作品に携わったような経験も持ち合わせていないので、語れるすべがない。

すべがないけれど、なんなんだろう、とモヤモヤした気持ちを整理したい。整理したくて長文に…。つまらない文章をうっかり読んでしまった方、申し訳ございません。

多分、色んなことを整理してこの文章はちょこちょこと書き直していくかと思います。

 

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